パーソナルスペースと公共圏

最近忙しくて中々更新が出来ていないのですが、取り敢えずこんな辺境のブログの拙文を取り上げてくださったニュースサイトの管理人の方々に多大な感謝。こんな経験は初めてなので本当に嬉しいです。ましてや普段から見ていたサイトに自分のブログのエントリが載っているのを見つけたときは狂喜しました。

http://kuki-shimin.com/archives/219

更新するのが中々思うように行かない最近の日々の中でも、取り上げたくなるようなニュースがあるもので、深夜のバイトから帰ってきてから、寝落ちに至るまでの間に何とか自分の思うことを書き付けておこうと思います。紹介されたエントリにも少し関連することですし。

さて、オタクの聖地巡礼についてですね。

正直僕はこの記事に対するアンチオタクコメントはほぼ煽りなんじゃないかと思っているのですが、まあ本気のアンチだとして考えたという前提で少し書いていこうと思います。

まず自分の立場から明確にしておくと、僕はオタク擁護派です。

少なくともこのエントリから読み取れることとしては、オタクがいきなり神社に訪れて写真をバシャバシャ撮って、絵馬にアニメ絵を残していくということだけです。

僕は何故そこに批判が寄せられるのかが分からない。いや、気持ちは分かりますが、批判がただ不快だからというだけの理由でしかないことが理解できない。これでマナーが悪くてゴミが増えたとか言うことならば、何らかの対策を講じるべきことだとは思いますが。

まず神社というのは公共の場所です。公共の場所である限り、どんな人間が入っても良いし、モラルを逸脱した行為をしていないのであれば何も批判されるべきところはないはずです。

例えばこの聖地に当たる神社が一個人の所有する家であった場合などは、聖地巡礼は自重するべきだと思います。例えば過去に「おねがいツインズ」というアニメの聖地として、作中の舞台のモデルになった一軒家(確か長野だったと思います)にオタクが押し寄せたという事態があったと記憶しますが、それについてはどうかと。何故ならばその行為はその家の主の生活に影響を与えるものだからです。僕だって、自分の家に人が押し寄せて四六時中写真を取られるようなことになったら気味の悪さを覚え、落ち着いて生活できなくなることは想像に難くありません。

しかし繰り返しますが神社とは公共の場です。綺麗だと思い、それを写真に収めることを誰も咎められたりはしません。宮島の厳島神社や京都や奈良や鎌倉の寺社で写真を撮っている人が怒られていることなど見たこともありません(勿論撮影禁止の注意書きがあるところ以外での話です)。

それがオタクが写真を撮っているとなると途端に批判が浴びせられる。これは不自然な事態だといわざるを得ません。

つまり、「オタクだから」批判が浴びせられている訳です。オタクは好きな場所を写真に撮る権利もないのですか。なんだこれ。

「大きな声で一般人には分からないことを話している」。そう言う方は自分が世界中の誰にでも分かる様な話題しか口にせずに一生を終えるのでしょうか。普段ドラマも見ないし、サッカーも見ないし、オリコンチャートもチェックしない僕は何かを口にするだけで迷惑ですか。人に分かりにくい話題をするのはそんなに悪いことなのですか。ではもしあなたが自分の趣味をそのままに、みんながアニメを当然のように見る世界になったらどうなるのでしょう。

「大勢で群れている」。もしこれが100人や1000人規模の団体ならば問題は出てくるでしょうが、せいぜい多くて10人以下の団体でしょう。多少多いとはいえ、そんな事まで気にして、中、及び大規模集団での行動(勿論行動によっては規制されるべきものもありますが、公共の場の占有など、著しく常識を逸脱していない範囲の行為)を規制する条例でも出来たら、日本はとても息苦しくなるでしょう。その集団を見て快く思わない人がいたとしても、それはあくまでその人の快-不快コードの判断によるものであり、そんな居心地の悪さぐらいならば吉野家の対面の席に人が座るぐらい日常的にある事でしょう。そんな事も耐えられないようなヒステリックな精神状態ならば、まずその人が他者を受け入れる訓練から始めた方が良いと思います。

「大きなリュックを背負っていて気味が悪い」。それはリュックを作っているメーカーに苦情を出してください。全くもって片腹痛い話です。その人が何を持っていようと周囲を威圧するようなものや、もっとあからさまな危険物を所持しているのならば話は別ですが、「大きなリュックを持っている→オタクに違いない→オタクは須らくロリコンである→ウチの子が危ない!」などと言う馬鹿げた理論が成り立つのであれば、日本の大きなリュックの販売数=幼児の性犯罪被害になるのでしょうか。「リュックが売れれば幼女が強姦」、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいですね。

僕には少なくとも、聖地巡礼が地域の秩序を著しく乱しているとは思えません。これはテレビでどっかのラーメン屋がクローズアップされたおかげで常連がラーメンを食べづらくなったぐらいの事態で、僕から言わせれば「元からお前だけのラーメン屋だった訳では無い」という感じです。

勿論心情は察することが出来ます。僕にも大学の目立たない喫煙所を気に入って根城にしていたのに、喫煙所が少なくなったことでその場所に沢山人が来るようになって居心地が悪くなった、というような経験があります。しかし彼らの行動が自由なように、僕も自由に行動することが出来たからこそ、その場所で喫煙することが出来たのです。心情のレベルでは彼らを嫌うことは出来ますが、なんら批判する根拠はありません。

絵馬に関しては僕はなんとも言えません。公共の場所とはいえその管理者がいる訳で、その場にそぐわないと思うのであればその管理者が彼の裁量によりその絵馬をはずす権限を持っていると思われるからです(詳しくは知りませんが)。例えば絵馬に二重丸の真ん中を両断するように縦に線が走り、その丸の外にヒゲのような線が何本も入っているというような卑猥な記号が書かれているのを見つけたら、それは管理者が外すでしょう。オタク絵が外されていない現状を見ると、それは管理者が(心情的にどうあれ)セーフと見做しているのだから、自分が不快に思ったからという理由だけでそれを外せなんてことは自分の立場を弁えなさいと言う感じでしょうか。本当にそれが明らかに害を及ぼす反社会的行為であると思い看過できないのであれば、神社の管理者(神主か役所?)に申し立てればよろしい。ともあれ、こんな事より文化財に平気で落書きする様な人間こそ取り締まって欲しいなあ。あれって相当な罪だと思うのですが。


人は誰だって不快な思いをしているのです。不快な思いをせずに暮らしている人などこの世に誰一人だっていないでしょう。

しかしみなさんは自ら進んで不快になりたいと思うことでしょうか。できれば不快な思いをせずに過ごしたいと思うはずです。

世の中には不快に思わざるを得ないことと、不快に思わないで済むことがあります。

前者はどうしようもないことですが、後者は捉え方によってどうにでもなります。今回の話が良い例で、そんなオタクを見て「地元の景観が汚れる!許せない!」と思う人もいる一方、「なんだアレ?あはは、オタクってバカだなあw」と思う人もいる訳です。

オタクっぽい人間が視界に入っただけで不安になり客観的な迷惑行為だとされるのであれば、人間は共存できなくなってしまいます。

両者仲良く過ごすのが一番だとは思いますが、なかなかそうも行かないと思うので、せめて無駄に憎みあうのはやめて、お互い少し寛容になればいいのにと思いますね。




(追記)
表題についての説明に不足があると感じたので補記。

パーソナルスペースも公共圏も個人が恣意的に解釈できるものであるからこそ、僕はここで過剰に「既に決められていること(法律や条例←詳しくないのですが)」を強調してきました。所謂二層構造(アーキテクチャとコミュニティ)の話ですが、人がここまで多様化してきている現状、人が自由に生きる為には今まで以上にそれが必要になってきます。

しかしだからこそ今まで以上にそれらのアーキテクチャに慎重にならなければならないのであり、人の単純な快-不快コードと多数決の結びつきによる勢いだけの論議でそれらを軽佻に成してはならないと思うのです。自由を重んじ、隣国の言論統制をネガティブに感じる心があるのであれば、あらゆる人の自由を成すためにはどうするかという想像力を持たなければいけません。

つまり重要なのは対話です。