サブカル

ぼくらは「サブカル欲求」のガス抜きをしてくれる書店が大好きさ。 - たまごまごごはん

サブカルについて僕なりに悪口を書いてしまいましたが、ヴィレバンとか好きでよく行ったりします。誤解してほしくないのが、僕はサブカルが嫌いなのではなく、サブカル的な意識が出ている作品や、隠しきれていない作品を読むのが恥ずかしいんです。いや、もちろんサブカル的な主戦場は真のサブカリストさん達には必要なんでしょうが、僕にはそういうのを読み解くセンスが無いので。

だからそういうのでなければ好きなんです。「エマ」とか「恋の門」とか「ワイルドマウンテン」とか、サブカル的だったり、サブカル雑誌に載ってたりするけど、サブカル的自意識が表出していないので読んでても恥ずかしくないんです。何を以ってそう判断するかは人それぞれだからまあ僕がこんな事を言ってもしょうがないんですけど、もしかしたら賛同してくれる人もいるんじゃないかと思います。

とにかく「自分はこういう人間である」とか「自分はこう思われたい」とか「自分はこんなに面白いんだ」とか、そういう作者の自意識を読者に感じさせてしまう作家はあまり僕の好みではないんですね。「荒川アンダーザブリッジ」や「清村君と杉小路君と」とかは何となくそんな匂いがします。サブカル関係ないけど。作者のそういった自意識を排除できるタイプの作家さんとして僕が最も敬愛するのがあずまきよひこさんです。あずまんが大王のアニメ版と原作の違いはそこにあると思います。

でもやっぱり人は何かに詳しくなると自分の知識に乗せて自分のセンスの良さなんかをアピールしたくなったりするもので、そういうのは気をつけていないと出てしまいます。それは僕もそうですね。ナウシカを良いと言った友達に対して、ナウシカのマンガ版を絶賛するというような感じですかね。

こういう現象はいずれ逆転を起こして、サブカルへの純粋な興味がファッションへ移り変わったりしそうな感じがします。というかすでにサブカル=オシャレという価値観はかなり根付いているので、ファッションからサブカルにはまる人も多いでしょう。まあこれはこれでいいのかも知れませんが、オシャレだから読むとなると、やはり視野が狭くなり、良くない。別にサブカリストさんだけに言える事ではありません。オタクだってオタク的なキャラ付けを自分に規定することで視野を狭める事があるかも知れません。

かってに改蔵」でこんなネタがありました。

あずまんが大王が終わったら俺は何のアニメを見ればいいんだ!
 →別にアニメじゃなくてもいいから・・・。

これは自己規定に囚われがちなオタクの欠点を鋭く抉り出しているように思えます。オタクの人は社会(オタクキモい的な風潮)への反発とか、そういう思いを持っている人が多い(のかね?)みたいですから、さらに自分がオタクであることに頑なになっていく傾向ってあるんじゃないでしょうか?しかしやはりこれは自分の自由を自分で狭めることに繋がり、楽しい人生を送る上でちょっと邪魔なんじゃないかなあとか僕は思います。もちろんオタクに偏見を持って、面白いオタク文化に触れられずに人生を過ごす人も、余計なお世話でしょうが、勿体無いなあとも思います。

で、結局何が言いたかったんだろう、僕は。