「萌え」ひろがりんぐ。

何か最近泣きゲーについてのエントリが多いですね。しかし以前も述べた通り僕は泣きゲーはあんまり、というかやった事がないので蚊帳の外です。

この間、オタクコンテンツにキャラ(あるいは絵)のないものは無いと言いました。多分これは間違いないですよね。例外は無いと思います。常にキャラがいるのがオタクコンテンツ。そのキャラクターにえもいわれぬ情愛を感じるのが「萌え」です。

僕は「萌え」というのは、オタクのアイロニカルな態度、すなわち「あえて」の作法から生まれた言葉だと思っていました。つまり「二次元に恋をするなんて、全く不毛もいいところだけれども、『あえて』好きだと言ってみる」というメンタリティ。正直な話、僕は中学生のときからエロい絵を探して「TINAMI」とかで18歳以上対象サイトを遊覧しまくっていたので、オタクがメディアに取り沙汰されて隆盛を極める前の「萌え」が使われていた場を見ることもありました。そこでの印象はそういう事でした。

しかし最近では「萌え」というネタ的だった言葉が、非常にベタになってきていると感じます。本の帯には「萌え」を薦めるような文章が書かれていたり、ゲームのコピーに「萌え」という言葉を入れたり、「いや、売り出すほうが『萌え』って言っちゃダメだろ!」と僕なんかは思うのですが、まあ意外とそういうのも売れちゃったりする訳です。

何故ここまで「萌え」が一般化したのか。そして何故ベタになったのか?それは北田暁大さんの言う繋がりの社会性の上昇という現象がオタク界の中にも蔓延しているからではないでしょうか。

具体的にどういう事かというと、まず「萌え」が発生した当時、萌える人というのは、自ら如何ともしがたい自らのうちに湧き上がるキャラへの情愛を表現するために「萌え」という言葉を用いました。いや、「萌え」という言葉が発生する前にもキャラに異性を感じる事もあったのでしょうが、それはそのまま出してしまうとベタ的になってしまいます。「萌え」というのはベタにならない為の装置の役割を担っていたと言ってもいいかも知れません。

しかし今はどうでしょう。僕たちオタクがマンガやアニメを語る際に、「誰に萌えるか?」「どう萌えるか?」という話題は非常に良く語られます。それが無くしては最早オタクではないぐらいの感じで、「え?エヴァで誰が一番萌えるかって?いや、俺あのアニメ、そういう目で見てないから」なんて言うと、何かサブカル気取りのええかっこしいみたいです。そういう人はオタクの中でもはじかれて行くかもしれません。

「萌え」が使われて広まりを見せた頃、「萌え」のコミュニケーションツールとしての価値があまりにも高すぎたんだと思います。まず自分の好きなキャラという話したくてもなかなか話せないような恥ずかしい話題について話しやすくなったことや、相手のとの共感が得られる事への喜びとか、「萌え」を使ったコミュニケーションは楽しいんです。

しかし今度はそれが逆転を起こす。すなわちコミュニケーションの為に萌えるようになる。意識的ではないにしろ、僕たちがオタクコンテンツを見る時に「誰が一番萌えるか?」という事を自然と考える習慣が付き始めたのではないかと思います。気づいたら「ぱにぽにだっしゅ!」の中で萌えランキングみたいなのを作っていたりしてビックリします。そのランキングは友達と照らし合わせて遊ぶためのツールな訳ですね。

そうなると「萌え」のない作品はコミュニケーションツールとしての価値が低いものとして人気を失っていきます。そうなると製作側も「萌え」をふんだんに取り入れた作品を作ろうとする。売り文句に「萌え」という言葉を入れるようになる訳です。そしてそれに食いつくオタクがでてくる。「萌え」だけを純粋に消費する作法が出来上がっていきます。これが萌えの自己目的化の流れではないかと僕は考えています。

これを「萌え」の退廃と呼ぶか隆盛と呼ぶか、時代によっての「萌え」の文脈で代わります。でも僕はあまりに動物化した「萌え」享受の姿勢は、物語を重要視する姿勢を相対的に低くするような事態を招いているのではないかという気がしてなりません。「ノエイン」とか面白かったのに、きっとあの絵の所為であんまり流行らなかったんだろうなあ、とか、他にも「妄想代理人」を初めとする今敏のアニメとか「プラネテス」とか、最近ではこんな感じのアニメとかが少なくなってきているような気がします。

製作側のファンサービスとして、例えばガンダムの入浴シーンがあったりするのは良いとおもうんですが、そればっかりになるとどうしても物語に入れる時間が減る。時間は有限なのです。

どーすればいいのかは全く分かりませんが、一方で「別にどーでもいいじゃんそんなこと。」と動物化した自分もいて、こう「萌え」の心地よさみたいなのに魅せられそうになってもいます。決して「萌え」を否定するわけではないんです。「萌え」によって他の分野が疎かになっていくのが寂しいだけなのであって。だからあくまで相対的な問題なんですね。

いやあ。言ってることがバラバラで自分でもよくわからん。

でも自分の心の内側から湧き出す妄想の様なものが「萌え」であった時代から、極めて作業的にある意味洗練された「萌え」方になっているのではないかと思うような。以前サブカルがファッションの道具になっているのでは、という旨を書いたけれども、今の「萌え」も非常に似たようなものに近づいていると感じたりもします。つまり本当に心の底から湧き出す萌えと自己目的化した萌えが混同されることに不愉快を感じているのだと思います。

心の問題と文化の問題、これらに影響を与えているのが「萌え」の一般化であるとしたら、それをどうすればいいのか。「萌え」というエサを与えられるだけの家畜になってしまって良いのか。文化とは製作者と同じぐらい消費者が築くもの。その消費者が文字通り動物化したのであれば、人間の文化が衰退してしまうのではないか。人が動物になり、さらにそれに合わせて文化の程度も低くなる(あるいは動物化した人間に合わせた文化として洗練されてゆく)。そういう事態は避けたいとみんなが思っている筈です。こういう状況に自覚的になったりすることも必要なんじゃないかって気がします。まあ僕の言うことなんてどれだけの蓋然性があるかは分かりませんが。