マンガの町から考える

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

こんな本を読んでおりました。

最近頭が完全にマンガの事ばかり考えているので、この本を読んでもすぐマンガのイメージと結びついて考えてしまいます。しかしここで僕の頭に具体的に何のマンガのイメージが浮かんだかという事を言う前に、本書の主張をかいつまんで説明したほうが良いですね。

この本は批評家の東浩紀さんと社会学者の北田暁大さんが東京の都市について対談する本です。

内容は、多様性を残した「個性ある街」をノスタルジー的な価値観で残したいと考える北田さんと、多様性を保障するにはどんな人でも住めるような均質化した街が必要で、今後そうなっていくだろうと考える東さんの対立(?)を中心に展開していきます。ただし工学的に善とされるバリアフリーや防災などに関しては互いに必要だと考えているようです。回顧主義と進歩派、ノスタルジー流動性、都市観の右翼と左翼みたいな感じだと僕は理解しました。実際はどうなんだろう。こういう風なことを断言したように言うと不安になってしまうのが僕の悪い癖ですね。ただし大雑把すぎるぐらいかいつまみまくっているのは確かですので、詳しく読みたい方はお買い上げの上、お読みになってください。


ハイ、では僕が具体的にイメージしたマンガの事ですが、まず最初に「よつばと!」が浮かびました。

よつばと!」の舞台は練馬がモデルらしいですが、僕は行った事が無いので、あくまでマンガの中での印象の話に基づいて話します。

よつばと!」では東さんの主張に近い町が書かれていると思います。東さんの主張は何となく無機質に感じられるのですが、実際マンガに表すとこういう風になるのではないでしょうか。もちろんかなりの夢を持たせてはいるでしょうが。

よつばと!」は特に「島」に住んでいた頃の記憶を引きずって暮らすことも無く、町にある大型量販店のでかさに素直に驚き、順応します。町は特にコレといった特徴のあるものとして描かれてはいませんし、ただの単なる郊外の町であるという印象を受けます。

よつばと!」は一見古き良きのどかな暮らしを描いているように見えて、実際はかなり近代的な価値観と調和したマンガであるように思えます。作者であるあずまきよひこの視線も冷め切っているわけではないけど、過剰に愛をともした雰囲気が無く、ある意味現実的な感じがして、それも近代の暮らしの雰囲気にマッチしているような気がします。

ただし「よつばと!」の世界は冷徹でシビアで動物的かというと別にそんなことは無く、町の人との日常的なコミュニケーションがあったり、休みの日には星を見に行ったり、魚釣りをしに行ったりと、非常に有機的な表現にも富んでいます。僕はこれは郊外での実現可能な理想の生活モデルを描いているものであると考えます。というかむしろ郊外にしか、そういう心温まる暮らしはないのではないかとさえ。「とーちゃん」が在宅勤務であるのも関連して考えられるような気がします。


もう一つは「それでも町は廻っている」です。「それ町」は商店街を舞台にしたコメディーです。

商店街ではそれぞれの人たちがコミュニティを作って仲良く暮らしています。その繋がりは郊外でのものより強く、商店街の人々で旅行に行ったりするぐらいです。そしてやっぱり大型デパートは敵なんですね。流動性は低く、土地の固有性を尊重し、繋がりを重んじる。それが商店街であり、日本における少し古くなってしまった町です。また日本人が良いものとして振り返る対象でもありそうです。

しかしそこには大きな情報アーカイブが存在することは無く、近代的な人間を集める「集客力」はなく、また利便性も低い。何となくなくなって欲しくは無いのだけど、存続するメリットが低い。正確に言えば動物的な欲望が人間の繋がりをも超えてしまうんですね。今はコミュニケーションというものはサイバーな空間によって代替可能なので、物理的に「町」の存在が無くても、人が一人で生きていかなければいけないという事にはならないのですね。

でも理屈では説明の出来ない郷愁がそこにある。理論化は出来ないけどあって欲しい。そんな「商店街」を「それ町」は描いています。


均質化した町は誰にとっても住みやすい。そういう風に考えると、やはりニートやオタクの事を考えてしまうわけで、それについて「げんしけん」や「中退アフロ田中」を思い出します。この二つの舞台は多摩と埼玉です。

多分、「中退アフロ田中」の舞台は「よつばと!」とそんなに変わらないんでしょうね。ただ描き方が違うだけで、東さんの言う均質化した町というのは多分現実的にこんな感じなんだろうと思います。駅前に居酒屋やカラオケ屋があって、家の近くにコンビニがあって。匿名的な町で匿名的に暮らして、お金が無くなったらバイトとかして。

げんしけん」の設定も中央大学が舞台というところが、よく考えたらミソって感じがしますね。コレといって熱いスポットがあるわけでもないけど、取り敢えずあるものはあるベッドタウン。その中で中大生のオタクたちは友達の家に集まって格闘ゲーム大会をしながらコンビニの弁当を食べる。たまに秋葉原に行ってもメインの行為は家に帰って買ってきた同人誌やエロゲーを見たりやったりすることにある訳です。


あ、今「ひぐらし」の事も思い出しました。何で忘れていたんだろう。都市じゃないからか。

ひぐらし」は都市型の生活について、あまり良い印象を持っていませんね。塾に通うストレスより田舎でのびのび暮らす事を善しとしています。舞台である「雛見沢(岐阜県白川郷がモデル。夏に行ったけれど本当にいいところでした)」がダム建設によってなくなろうとした時に村人が団結してそれに対抗する。まさに昔の日本のムラであり、共同体の崩壊と言われる現象は、こういうムラ社会の消失のことを言うのでしょう。

しかし、「ひぐらし」に於ける「雛見沢」は村中が団結しているが故に同時に拘束力も強い。村の中ではダム誘致派のリーダーが殺される事で、見せしめの効果として言論が弾圧されます。主人公の圭一はその暗部を知ってしまったヨソモノであったがために・・・、とネタバレなのでいえません。しかしまあとにかく多様性とは真逆の方向にある。

発展して言うならば、日本に「雛見沢」という場所があるということは日本全体で見れば多様性を持つもののように思われるけれども、「個性のある地域」というのはそれ故に個性に合わないものを排除する働きがあり、それ自体多様性と相反するものであるということ。

例えば秋葉原は日本の街の多様性を感じさせてくれるけれども現地で何が起こっているかといえば、既存のオタクが秋葉原の観光地化による一般人の流入を嫌い、また一般人は心の中でオタクを指差して嘲り笑う。さらにオタクの街になる前の秋葉原の住人は不健全なもので溢れかえる街に子供を放つことを不安に思うだろうし、増えすぎた人によって住みづらくなったと感じる人も増えたでしょう。

この話は「ひぐらし」かなり重要なものとなりますね。


中世ドイツの諺で「都市の空気は自由にする」という言葉がありますが、近代は「どこの空気も自由にする」という方向にあります。これは善いことでしょうか、そうではないでしょうか。

また「郷に入りては郷に従え」というローマの諺もあります。秋葉原に来たなら秋葉原の作法に従え。嫌なら出て行けばいいという事ですね。しかし今は郷がグローバル、インターナショナル化して郷の区別がなくなっています。そこでは人々の最大公約数的な環境を前提に暮らせるようになりつつあります。全世界ローマ化計画。いや、ローマもどこも全部ひっくるめて郷になろうとしている訳ですね。

僕はやっぱり町の個性というものは残っていて欲しいと思います。多様な人が生まれるのは多様な環境があるからだと思うからです。今の段階は街が均質化してもその中に多様な人が暮らすことが出来ますが、その均質化した街がこの先100年続いたとしたら、人間も段々均質化していくのではないかという気がします。

ただ別に「ジャスコ化」した街がいらないと言っている訳ではなくて、要するに僕は現状維持が良いと思うんです。ジャスコ化した街にはそれなりの利点があるし、僕の生活だって下流社会の典型的なモデルの様な生活で、それに結構満足もしている訳です。そういう視点の人間が自分が楽しいからといって秋葉原が存続して欲しいと思うのはかなり自分勝手な話だとは思うのですが、やはり社会が面白くあるためには誰かが気に入らないことも引き受けて貰わなければねえ。それに本気で今の街が嫌いなのであれば出て行くという最終手段がある訳で、何も死ぬわけじゃないじゃないですか。

何と言うか僕は住んでしまえばそれなりに適応できる能力が人間にはあると思うので、「住めば都」という言葉がなんだかしっくり来ます。もちろん均質化した街にも、個性ある街にもです。さっき言った様な人間の均質化は、異質な街を選択できる状況がある事で回避されるんじゃないかな。まあもちろんネットに多様性の全てを付託する事も考えられるけれども、人間の検索能力が、あるいは好奇心がどこまで自由な力を持つかが問題になるでしょう。

攻殻機動隊の様な事になっちゃたりして。てか結局多様性の話になると僕の話はいつもタチコマで落ちちゃうんだよなあ。ワンパターンめ。