自分の萌えに対するスタンスを「世界観萌え」と名づけてみました

僕の言ってきた内容を端的に示す言葉を2chで見つけました。

「萌えは作品から押し付けられるものでなく、作品から見出すものだ」

いやはやまったくその通り。僕も思ったことをこの様に簡素にまとめられる能力がほしいものです。

まず「萌え」とは自分の心の動きです。自分がいつの間にか心に宿しているものであり、間違っても萌えるために萌えるのではない。萌えはきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの。

前にも言ったけど押し付けがましい「萌え」は嫌です。人はブリッコを嫌いますが、「萌え」も同じです。押し付けがましい萌えに萌えるのは餌を与えられて喜ぶ家畜と同じです。どうして自分を骨抜きにして食い物にしようとするモノに媚びへつらわなくてはならないのか。これは「アッシー」とか「メッシー」みたいなものです。良いように操られているだけです。

もちろん僕も二次元に萌える人種です。恋しちゃってるBOYです。絵が可愛いとか、正直そういう要素はかなり重要ではあります。管理人さんのような性格の最高の女性でも、稲中にでてくるデルモのブスみたいな顔のヤツだったら、きっと萌えないでしょう。

しばしば「萌えとは記号」だと言う意見を聞くことがあります。浅学な僕にはこの言葉の意味するところが正確には良く分からないのですが、要するにこういうことでしょうか?「記号」とは明確なシニフィエを持つものであり、平面的画一的なものである。例えば「ツインテール=ロリータ」とか。そして、その記号が「萌え要素」と呼ばれる類型を作り、その「萌え要素」が集まって「萌えキャラ」が形成される。だから「萌え」とか言っているものは極めて空疎で、中身のないものだと。

僕はここにひとつの違和感を感じます。まず萌え要素を全てデータベースに集積しようとする動きがあり、それによって「萌え要素」が形式化されること。つまり萌えを空疎たるものにする要因は消費する側にあるということ。「それって綾波のコピーだろ?」とかそういう事が語られる場というものがありますが、綾波を知らない人間にとってはそれがオリジナルであるし、それが綾波そのものでない限り綾波ではないのに、それが「綾波のコピー」としてとられる。しかしその言説がある程度の真実味を帯びて読み手に受け取られる現実があるならば、やはりそれは「綾波のコピー」として位置づけられ、ちょっと興ざめしてしまう。

今では新しくキャラが出てきても、すぐさまその要素は分解されデータベース化される。東浩紀が言っていることですね。つまり萌えが生産され需要されるプロセスでどーしても萌えは空疎にならざるを得ず、それに萌えることは先に述べた家畜のような受け取り方しかできなくなる(動物化)。つまり「萌え」に対してベタにならざるを得ないのは人間の欲望を含めて極めてシステム的になされている訳ですね。

しかし、僕は「萌え要素」と「萌え要素」の血管の間に満たされる組織液の如きものこそ真に「萌え」を決定付けるものであるべきと思っていて、それは言語化できるものではないし、故にデータベース化できるものではないのではないかと考えています。

違う思考思想嗜好を持つ人間の描くキャラが構成要素が同じだからといって同一のものになるとは思えない。同じキャラでも描き方が違うかもしれないし、どのような行動をするかも違うかもしれない。キャラが生活する、どの場面を切り取るかも違うかもしれない。キャラが描く人間の脳内で動く限り、キャラの住む世界も違ってきます。

ここで僕は高らかに「世界観萌え」を提唱したい。

違う作品のキャラクターを平面的に同じ世界で比べるから変なことになるのです。キャラの相違性ではなく、作者の描く世界全体の相違性を包括した上で初めてキャラは生きたキャラクターになります。常にキャラの「萌え要素」の新奇性(つまりその時点ではオリジナルになる)に泥濘する事に意味はありません。同じキャラクターでも、それをどう描くかによって作品は珠のように輝くし、クソにも堕する。

ただそんなことを考えずに、ただどうやったら「萌える」ことができるかを考えた作品も現実には作ることができます。つまりキャラありきの話。僕はそういうのに対してはアンチをの姿勢を取ります。

ひとつ例を挙げるなら、それが秀逸に出ているのが「エマ」ではないでしょうか。イギリスのメイドが身分違いの貴族に恋をする。文字に書いてしまえばただそれだけの使い古された陳腐にも思える話があそこまで輝くのは、作者の描く世界が瑞々しく力強いからではないでしょうか。

この世には、設定を打ち込むだけで話を作ってしまうプログラムがあるといいます。しかしそこにはきっと空気、すなわち世界観がが欠落するでしょう。なぜなら世界観はデータベース化されないからです。僕は今さっき「エマ」の空気を説明することがどれだけ難しいか痛感しました。言葉にはとても出来ない。

僕がドージンワークのアニメについてボロカスに言うのは、この「世界観」を無視しているように思われるからです。世界観なき物語に独自性は宿らない。僕は「作家性の神話」というものをまだ信じています。

思えばあずまきよひこの世界観、森薫の世界観、漫☆画太郎の世界観、和田ラヂヲの世界観、久米田康治の世界観、佐々木倫子の世界観、いろいろありますが、どれもやはり独特のものです。キャラクターが同じ事を言っても、それがギャグになったりシリアスになったりします。佐々木倫子のマンガなんて、ただ話しているだけで面白いもの。

まあそんな感じで、僕が本当に面白いと思って敬愛する漫画家の方というのはその作家さん独特の世界観があるものなのではないかと思い当たりました。逆に僕が持っているマンガの中では「WORKING!」にはそれが足りないなとか思ったり。なるほど、だから萌えないのか。

今日書いた内容は、すごく粗いしもっとまとめるべきだと思いますが、僕の中では大事なことがかけたと思います。うん、これからも「世界観萌え」のスタンスでいこう。ちなみにエロゲではアリスソフトの世界観というのは他にない魅力的な世界観だと思います。