監督って大事なのか

GWなのに外出るのは食事買うときだけ。家から30mコンビニへ。
特に予定もなにもない。遊びに誘われる事なければ、誘う人すらいない。
鳴らない携帯電話。毎月基本料金のみ払ってる。


・・・あは、ははは・・・('A`)

2chにこんな書き込みが。僕もまったく同じ状況なのに、全然つらくないし悲しくないのはどうしてだろう。これは幸せなことなのか不幸なことなのか。

人に誘われたら喜んで付いていくし、自分のやりたいことがあればすすんで人も誘うけれど、そうでない限りは常に引きこもって一人で過ごしています。でも一人の時間は僕にとって非常に楽しく、過ぎるのが勿体無いと感じるぐらいです。

ただGWからバイトを始めるつもりだったのが面接は通ったもののGW明けからと言うことなので、この時間を利用して何かしたいなとは考えていますが。しかしお金がなさ過ぎるので、家で静かにネットをしたり本を読んですごすかもしれません。


痛いニュース(ノ∀`) : TVアニメ『らき☆すた』の監督、「その域に達していない」との理由で降板 - ライブドアブログ
山本寛 - Wikipedia

色々ガイナックスにかこつけた釣りじゃないかとか騒がれていますが、僕は特に内情は分かりませんし、推測をつけるほどの知識もありません。しかし監督が交代と言うことは事実であり、交代するからには何かしらの理由があるのだろうと思われます。

さて、僕が考えるのは監督とは何かと言うことです。

監督 - Wikipedia

映画では主たる演技の指導やテーマ・方向性を示す立場にある責任者、または責任者の呼称。下に助監督と呼ばれる役職がある。
英名は Director。日本語では一般にディレクターと読み、英語読みではダイレクターと言う。
監督の同義語または類義語として英名とは異なる意味のディレクターやプロデューサーを用いる場合、混同して用いることがある。
総合的にテーマや方向性を示す立場にある責任者であることから対外的な折衝などの渉外を主たる業務にすることが多く、監督作品における公式なスポークスマンの役目を担うことが多い。大規模な映画や総監督の元に演技・特殊演技・音楽・撮影・特殊撮影などの役割分担をした複数人の監督が存在することがある。

これを読む限り、作品の方向性を決めるのが監督であり、相当重要なポジションであることが分かります。しかし僕たちライトな視聴者と言うものは、監督なんて普段は意識しないで見るものです。

正確に言うとよほどクセのある作品でなければ気になりません。こんな面白い映像を撮るなんて一体誰が監督なんだと。

例えば映画で言えば、ヤン・シュヴァンクマイエルというチェコの監督がいますが、彼の実写とクレイアニメーションを併用したグロテスクな表現は他の監督にはあまり見られないものです。またアレハンドロ・ボドロフスキーという監督の映像なども、他に類を見ない個性的なものだと思います。ヒッチコックなんかだと、もう同じ作家が書いたシリーズ小説を読んでるみたいですよね。

しかし、作品に一貫した個性を持たない監督と言うのもいます。例えば有名な映画監督スタンリー・キューブリック。僕は「博士の異常な愛情」が大好きですが、「2001年宇宙の旅」はそんなに好きではありません。別にそんな事はいくらでも起こると思うのですが、2つの作品の間には「あ、これは同じ監督だな」と思わせる要素も僕には見つけられませんでした。(僕はコーエン兄弟も好きですが、そんな感じです。別に悪いことだといってるのではないので)

多分彼の監督としての能力は非常に高いのだろうと思います。しかし「作品を面白くする能力」と、「作品の中に自分のオリジナリティを出す能力」は監督がそれぞれ持っていたり持っていなかったりするものだと思うのです。(まあ後者の能力もキューブリックは持ってるのでしょうが、それが彼の監督作品に一貫したものではない。と僕は感じるのです。)

だとするなら監督で作品を追うというのは「監督が彼が監督をする作品の中に共通した面白さが含まれている」という前提とした行為であるところが大きい。まあ彼が作るものは何でも面白いらしいと言う評価が世の中、或いはコミュニティに流布されている場合は違うでしょうが。

アニメの話に戻りまして、監督としての強烈な個性がないけど面白い監督として、僕は谷口悟朗監督を挙げます。「無限のリヴァイアス」「スクライド」「プラネテス」「コードギアス」、どれも似ても似つかないような作品のような気がしますが、どれもかなり面白い。プラネテスなんて僕は超好きです。

では次に宮崎駿はどうでしょう。丁寧なアニメーション、子供が主人公のファンタジー、レトロなイメージの機械類、もちろん例外もありますが、基本的に全体を通して特徴的な作風だと言えます。今のところ彼に代わるポジションの人間と言うのは出てきていないし、彼がいなくなれば彼の作品らしい作品はきっと出てこなくなるでしょう。また僕が思いつく限りではアニメ映画監督で言うならば今敏湯浅政明はかなり作中に独特の意匠が出る人たちではないでしょうか?

つまり「〜監督のらしさ」というものを持つ監督とそうでない監督がいる。だって「谷口監督らしさって何?」って聞かれると、僕は答えられないですもん。まあそうだなあ、作品が甘くないところぐらいかな。

結局僕が言いたいのは、ヤマカンはどっちなんだと。少なくとも「らき☆すた」が初監督なのだし、あれだけ見ただけじゃ僕には分かりません。「ヤマカンだから見てたのに」とかさらっと言いやがる人間がいますが一体何を見て貴方のヤマカンファン心が芽生えたのかと。てかもうそんなレベルならアニメ業界で暮らせるんじゃないの?とか言いたくなるんですが。

監督が下ろされたことでワーワー言っているようですが、はっきり言って僕は監督が変わることに対して激しい感慨はない訳です。何故ならヤマカンの重要さを肌身に感じてないから。

4話を見たところ、1話と比べ物にならないぐらい面白くなっているのだけど、まあなんつーか、「監督誰だよコレ!?スゲーな」とはならなかったと。

例えば僕は「あずまんが大王」と「ぱにぽにだっしゅ!」どちらも同じぐらい好きですが、「あずまんが大王」の監督は覚えていませんし(正確にはうろ覚えです。錦なんとかとかそんなだったような)、一方「ぱにぽにだっしゅ!」の監督は新房昭之だとはっきり覚えているので、結局作品の質としては監督は関係ないのですがね。ただ作風が特徴的で、その特徴が自分の好みにあったものであれば、まあそりゃ誰だって調べるよね。

だから「らき☆すた」において監督が気にならなかったという事実は作品を褒めるものでも貶すものでもない訳です。しかしここのところ回を増すごとにじわじわ面白くなってきていたので、ここに来て方向転換とは勿体無いと思いもしました。

ただそれ以上に監督が変わることで、どの辺りが違ってくるのか目の当たりにすることも出来るので、それも楽しみだったりします。やはり監督の違いと言うのが認識できるかどうかというのが出来る視聴者との差だと思うので、それを見て僕も自分の目を肥やしたい。

関係ないけど「えが☆すた」の最新版が出ていたので