キャラを間口に物語を売る。

最近の電脳コイルの展開が面白すぎてついDVDを予約してしまいました。限定版だから結構なお値段。しかも2クールだから全巻そろえたらエライ事に・・・。しかも放送終了してるわけじゃないから今後の保証もないし。

でも実はそこまでクオリティの不安はなくて、きっと面白く続いてくれると信じています。

東浩紀さんが東工大の授業で「物語を構成する要素として物語とキャラクターがある。近年はこのキャラクターが前面に出てきているっぽい」といった様な話をしていたのを聞いたけど、そんな風潮の中、電脳コイルはどう見ても物語寄りです。まあストーリーに拘泥すると広げた風呂敷が畳めなくなって最後に破綻と言うパターンも作品によってはあるかもしれないけど、電脳コイルは決して壮大すぎる設定ではないし、作中に張ってある伏線もきっと結末があっての事だと感じるから、問題はないはず。キャラクターを重視した上でストーリーを絡ませたモノとしての失敗例が「ゼロの使い魔」とか「いぬかみ」だったりすると思うのだけど、どう考えてもああはならないだろうと。

しかし物語の凋落と言う話が実は僕にはピンとこなくて、これって受け手の姿勢の変化の話だと言うような気がするのです。例えば「ハルヒ」は荒唐無稽な話だけど、決して破綻した話ではないし、その設定と日常のバランスが奇妙なリアリティを生み出して、良い味を出していると思うのです。しかし今は受け手がキャラクターを話から切り出し持ち上げ、またその需要を満たすような商品を次々にメーカーも売り出す。こういう作りが単純に昔はなかっただけで、「うる星やつら」が流行ってる時とかもラムちゃんのフィギュアが大量生産、大量流通していたら今みたいな状況になったりしてたのではないとか思ったりします。

確かに今のアニメを見ていると萌え目的で視聴されるアニメっていうのは増えてるように思うけれど、画調が変わっただけで似たようなものって昔にもあったんじゃないかという気がする。リアルタイムで見てないし、空気はよく分からないけどさっきの「うる星やつら」とか「ハレンチ学園」とか「まいっちんぐマチコ先生」とかって、近年の萌えアニメと何が違うんだろう。

だから今は萌えアニメだけでなく、その周縁のキャラクタービジネスが確立された事こそ、人の気持ちや姿勢に影響を与えているのではないかと言う気がします。

また逆に、やはり今でも物語が面白いアニメはある。あるけれどもキャラクタービジネスという強みを持った萌え要素の含まれたアニメほど展開できないから、そういった物語重視のアニメは存在感が薄いんじゃないかなあ。

ネットと親和性の高いオタク文化であるから、ネットで話題になりにくいアニメは当然見られにくい。だからキャラクターという展開力を持たない物語重視の作品はイマイチ人目につきにくいし人気も爆発的には出ない。それぐらい、キャラクターというのは強いんですね。だって話の面白さを理解させるより、画像を提示して視覚でもってキャラの可愛さを理解させるほうが遥かに簡単だもの。言ってしまえば昔のアニメの大半だってそういった視覚でキャラを売ってきたのではないでしょうか。ガンダムだってグッズを売るために製作されたのだし、「カッコイイ」から「萌え」にシフトしただけで本質はあまり変わっていないのかも。

僕はこれが不当なことだというほどまでには思わないけども、やっぱり面白い作品があんまり見られてないとか、そういうのは嬉しい事ではありません。

でも実際僕はそこまで悲観してはいません。先ほど言った様に、今の作られ続けている作品がキャラクターだけを考えて作られたものばかりだとは僕は思っていないからです。

最近のオタク界のビッグヒットといったら「ハルヒ」と「ひぐらし」だと思うのだけど、どちらも物語面白いと思うもの。まあ確かにこれ以上面白いストーリーの作品も沢山あるのかもしれないけど、少なくとも「ゼロの使い魔」がこれら以上の人気を勝ち得なかったのは、やっぱりまだ物語の面白さが評価の指標として残り得ているからだと思う訳です。

しかし「ハルヒ」も「ひぐらし」もまた、キャラクターを重視しているのも間違いないですね。だから何というか、面白い話を売るためにキャラクターという間口を設けるのは、今のコンテンツ業界では鉄板の戦略なのかもしれません。でも僕はそれを悪いとは思いません。何故なら物語とキャラクターは片方が上がれば片方が下がるシーソーの様な関係ではないと思うからです。それは両立できるものだと僕は思う。僕が物語を論じるほどの目があるかどうかはさておき。

だから最終的に何が言いたいかというと、イサコ様の素晴らしさを広く伝えようと言うことだよね。






でも何だかんだ言って、このままで良いのかと言う気もします。ドージンワークの様な惨事がこの先無いとも限らないし・・・。

さっきの続き(リアルで「アホの子」に最も近い存在はオセロの松嶋だと思います。)

「アホの子」が「素直」で、かつ「常識を著しく逸脱しない」存在だと言いました。それをまとめると行き着くのは「子供っぽさ」なのではないかと思い至りました、今。

天然はキャラクター個人の性質なので、子供っぽさとは関係ないですもんね。

そして「子供っぽさ」が萌えとして成立するには実際の子供ではいけないわけです。萌えがギャップによるものであるなら、ある程度年齢的に大人でなくてはならない。

つまり通常ならば大人になるにつれて多少スレたりしていくところが、「アホの子」は童心を忘れない訳です。それはとても貴重なことで、「かってに改蔵」の「初心さま」の話と通じるところがあります。

物事を穿って見る女性に対する、素直に感動できる女性の魅力。

女性と映画を見に行ったとして

「アレって○○のパクリだよねー」

とか言うより

「凄く面白かったね!」

と素直に言う女性の方が良いと思いません?まあ一概には言えないでしょうけど。

そういう部分をマンガ的にデフォルメしたのが「アホの子」だと。

ドージンワーク」でかねるが寝ようとしているなじみを「ねーねー」という感じで起こそうとするシーンがありますが、普通大人であるならそんな事はしません。

つまり「アホの子」のボケの根幹には「大人になったらしなくなること」と言うのがあるのではないか。

そう考えると、榊さんはかなりの「アホの子」として完成系に近いような気がしてきましたね。あんな外見で子供向けの映画でボロ泣きしたり。まあそれを「アホの子」と結びつけるのは言葉が悪すぎて心が痛いですが。でも「猫は狭いところが好き」というのを聞いて自分の机の引き出しを覗き込むのは「アホの子」だと言えるのではないでしょうか。

ちなみに僕は読子・リードマンも大好きですが、彼女も大人なのに蒐集癖という、いわば子供っぽい部分を持っていますね。加えてビブリオマニアであるなら賢そうになっても良いはずが、逆に子供っぽい性格であるところなんか、変に気取らず作品を楽しんでいるんだなあという感じがしてとても良いです。

「アホの子」の代表格であるつかさも高校生にしては似つかわしくない子供っぽさを見せ付けてきますから、やはりそこらへんの部分に特化したジャンルなのではないでしょうか、「アホの子」って。


しかしやはりここら辺のことも既にどこかに書いてあるのだった。ううむ、笑い男現象。自分が恥ずかしい。

ボケ担当の中での「アホの子」の立ち位置

僕のイメージ。

キャラ属性 素直さ 価値共有
バカ ×
アホ
天然 ×

素直さとは反転させれば自意識の強さです。自分が今面白いことをしているという自覚。バカにはこういう部分があるが、アホの子にはこういう部分がないような気がします。つまり「アホの子」は素直である。

価値共有とは一般人と同等の前提を持っているかどうか。つまり空気が読めるという事ですね。天然は空気が読めないけど、アホは読める。


僕の具体的なイメージ。

僕が勝手に思っているバカの代表としての「苺ましまろ」の美羽、「みなみけ」のカナ、「あずまんが大王」のともあたりは、自分の行動が面白いと自覚した上で(敢えて)行動しているように見えます。カナの「真のバカは賢くなくてはならない」という言葉が僕は示唆的だと思うのですが、すなわちバカにはバカなりの知性を持ち合わせている・・・、のではないかなあ。

「アホの子」と言われるつかさからは、そういった意図的に面白いことをやろうとする意識が感じ取れません。こういう素直さが「アホの子」の憎めなさであり、最大の魅力なのではないかと思うのです。「ウケをとろうとせずにウケてしまう」、そういう感じがイイネ!!と僕は思います。

例えば「ドージンワーク」のかねるなんかは「アホの子」の素養があるんじゃないでしょうか。しかしたまごまごさんが言うように、僕も激しく「よつばと!」の風香を押したいですね。マジで「グッバイマイラブ」と呟くシーン、あそこ大好きなんです。「あずまんが大王」に於いては大阪あたりが「アホの子」だと言われそうですが、僕の考えで行けば榊さん(特にマンガ版の)なんかも「アホの子」でいいんじゃないかと思ったり。

天然については非常に難しく、多分かなり人によっての解釈が食い違うと思うのですが、僕は「空気を読めない」、「常識からズレている」のが天然だと思っています。例えば「からくりサーカス」のしろがねであったり、女性キャラではないけれども「フルメタル・パニック」の宗介であったり。だからここまで逸脱してないとはいえ、「あずまんが大王」の大阪は天然よりなのかも知れません。割り箸のくだりなんかがそんな感じだ。

対して「アホの子」は著しく常識を逸脱することはない、というイメージなわけです。


あ、なんか結局既に言われていることの繰り返しになっているな。

まあとにかく一番の主張は「アホの子の魅力はその『素直さ』にあり!」という事ですね。裏表がない感じや賢しらぶった感じがないのがいいじゃないですか。まあそうなると天然はどうなるんだという話なんですが。

何か最後の方、既出の繰り返しになっているのに気づいてモチベーションが下がっちゃったけど、こんな感じ。

こんな事を書く連中に対して竜ちゃんのカウンターパンチはきっと来る。そう、うみねこのなく頃に。

プレイ完了。

一言で感想を言うのなら、面白いけど「ひぐらし」程心を揺さぶるほどのものではない、という感じでしょうか。

もちろん一編だけで終わる物語ではないので、あくまで導入部としてのポジションにある話なのですが、「ひぐらし」の導入部である「鬼隠し編」といえばそれはもう恐怖のどん底に叩き落されるような物語で、「は、はやく続きをッ!続きを読ませてくれッ!!」と絶叫せんばかりのものだったので。故にそれと比較をするのであれば、何というかサーっと終わった感じがあります。

思えば「ひぐらし」は推理ものでありながら同時に自らが被害者という斬新な話だった訳ですが、今回は素直に推理物の小説みたいな印象です。勿論竜ちゃんがそれをぶち壊し、こういう否定的なレビューを我先にと書いている僕みたいな人間をアッーと言わせる仕掛けを掛けてくることはかなりの確率であることだとは思うのですが。

ただそういう事を考慮しても、物語は過程が面白くなければ物語としての評価は得られないと僕は思う。どんなに凄いどんでん返しがあっても、そこだけしか面白みのない物語に高い評価をつけるべきではないと。

ひぐらしはその結末に対して、ネットなんかでは評価が割れているわけですが、ただ一個の同人ゲームがここまで多様なメディアによって展開されていることを見れば、今でも絶大な人気を保ち続けているのは明らかです。

よって「うみねこ」が「ひぐらし」以上に洗練されたトリックを使って、プレイヤーを驚きの渦に巻き込んだとしても、「ひぐらし」程の人気を獲得できるかというと、それは難しい気がします。というかトリックの巧さだけでは世の中に数多く存在する推理小説から抜きん出る事は不可能だと思うし。たとえそれがメタフィクショナルなものであっても。

僕はひぐらしの凄さというのは演出だと言ってきたように、その恐怖たるやもう身を震えさせ、毛を逆立ててしまうほどだった訳です。その巧さとは、圭一という一人の主人公が語る形で物語を進行させることでプレイヤーと圭一とを同一化させ、その圭一に降りかかる身も凍るような出来事や事件をさもわが身で感じているかのような錯覚に引き込む事にあったのだと僕は考えています。

しかし今回の「うみねこ」では一応主人公として立てられた人物が存在しますが、徹底してその人物からの視点を描くものではありませんし、主人公の図像が最初から与えられているという時点で既に「ひぐらし」とは違っています。つまりプレイヤーは常に事件を外部から眺める傍観者である訳ですね。

つまり一般的な娯楽として読む推理小説と大差ないわけです。自分が事件にかかわらなければ人がどんなに死のうと関係ありません。ふむふむと思って読むだけです。 とゆーか実際登場人物もそこまで人の死に対して深く悲しんでいる感じが感じられない。

しかしひぐらしでは自分が被害者です。文字通り人事ではない。その緊迫感がページを繰る、というかマウスを握る手に一緒に汗も握らせてしまう訳です。

プレイヤーが最初からメタ的な存在であるならば、物語の中に提示された情報だけが自分の範疇のものだと最初から限定されますが、プレイヤー=登場人物であるなら、自分の外部に存在する知りえぬ情報に対して想像を巡らせ、恐怖することができる。思ってみればひぐらしの真の怖さというものは、文中の言葉より、それから想起される自分の想像にあったのではないかと思えます。

まあ「ひぐらし」でも事件の全体像を見渡す事ができるメタフィクション的視点はプレイヤーは持ちうるのですが、それを与えるtipsという要素はむしろ通常の一人称形式の物語に付与させるギミックとして斬新なものであったわけです。自分は今誰かに命を狙われていて、近くに信用できる人間もいず、孤立無援の状態である。そして自分のあずかり知らぬところで何か悪い予兆が起こっている。そこを主人公には知らせず、プレイヤーだけに知らせるというのは、非常に効果的な演出であった思います。

なんにせよ今回の「うみねこ」は真に迫った迫力が減退している。そういう意味で最初に言った「心を揺さぶる」ところがない、という訳です。

ただ「ひぐらし」の推理小説的な部分に対するツッコミは今でも言われていることであり、そういうところに慎重に作られていくであろうという予感をさせる今作は、そういう事にこだわる人にとっては納得できるものになりそう・・・と思います。

てか絶海の孤島で制限時間は48時間って段階で物語の幅やスケールが限られるよなあ。ひぐらしの村っていう設定はかなり好きだったなあと認識。

ああ、何か悪く書きすぎたかなあ。普通に推理し甲斐のありそうなところは面白いし、言ってしまえば物語のはじめもはじめな訳で、早計にも程がある感じが否めない。冬コミが楽しみなのは間違いないです。ひぐらしと比べてしまうのがいかんのだろうか。でもうみねこ「のなく頃に」だしなあ。ベルンカステルも出てくるし。

最後にベアトリーチェ萌え。


追記、というかメモ:
事件の本筋に必要のない事が一切排除されている感じがある。例えばレナが家にやってきてチェーンをガチャガチャやるとか、そういう類の。まあ別に怖さを求めてプレイするものでもないか。頑張って推理してみよう。

マッドカイジ

カイジマッドハウス制作に決まったみたいですね。素晴らしい!

来期は他にも「みなみけ」「もやしもん」「もっけ」「げんしけん」と、なかなか楽しみなアニメが多いです。てか見直したら平仮名ばっかりだ。

なんか色々好きな原作がアニメ化しているので、1つ希望を。

ガイナックス京アニで「吼えろペン」をアニメ化してください!「炎の転校生」の続編でも良い!

最近島本和彦作品にハマっておりまして、読み漁っているですが本当に面白い。特に「炎の転校生」なんて本当に20年近く昔の作品とは思えないほどギャグが新鮮です。もっと色んな作家は影響受けてもよさそうだけど、意外と島本先生の残した影響というのは他のマンガに感じる事が少なく、ジャンルとして割と孤高のポジションを担っているように感じますが、実際どうなんだろう。

まあ別にこんな事言っても実現する訳はないのですがね。でもやったら面白いと思うなあ。


ちなみにベタのベタベタですが島本作品にハマったきっかけは「らき☆すた」です。恥ずかしいけど、このタイミングでこれを言わないのももっと恥ずかしい。

アニメ化っ・・・・!

福本伸行『カイジ』がTVアニメ化決定、日テレ系にて10月スタート - 「最後通牒・こぼれ話」
絶望した!書いたエントリを登録しようとしたらメンテナンス中で絶望した!
また書き直すのもめんどくさい、というか文章を暗記しているわけではないのでもーいーや。
とにかく制作はマッドハウスだよね?アカギ面白かったもんね?
個人的にマッドハウスは何か好きです。今敏ファンだし。

で最近http://news4vip.livedoor.biz/archives/51018104.htmlと、こういう話を見つけたのでちょっと考えた事には、制作状況が違う環境ではどのスタジオが凄いかということは一概に言えないんだなあという事。

もう1つは細部にこだわった演出や書き込みをしても最終的にそれが高評価に繋がるかどうかと言うのは別の話で、僕は「フルメタル・パニック」は凄い好きだけど他の京アニ作品はハルヒの1話ぐらいだもんな。kanonAIRハルヒらき☆すたも全部見ているけど、後々残りそうなのは今のところ無いし。

「凄い」というのが技術的な話ならば凄いと思うけど、やっぱり僕が思う制作会社の「凄さ」というのは視聴者の心を惹きつける面白いアニメが作れるかという事で、そう考えると京アニも特段凄いスタジオとは言えないかもしれない。あ、勿論僕にとってですよ?

まあでも作画と言うのも非常に大切な話で、そこを丁寧に作っているのは凄く好感を持ちます。やっぱり丁寧に作っているという事は作品への愛、仕事への真摯さの表れだと思うし、スタッフが「テキトーでいいや」と作っているアニメにオーラが宿るはずは無いのです、多分。

でも実況版なんかですぐ「作画崩壊だ!」とか叫ぶ連中は過剰に反応しすぎだと思うけどね。力の入れどころというものがあるだろうし、アニメの制作現場がどこも修羅場であるらしいことを考えればそういうメリハリは必要なんだと思う。よく知らないけど。

僕がアニメスタジオと呼ばれて思いつくスタジオはそんなに多くは無いけど、安定して面白い作品を作り続けてるところはやっぱり好感が持てる。職人っぽくて。そうだとするとやっぱりマッドハウスって好きだなあ、と思う。いや、今期えらくひどい物も作ってるみたいだけど、某王女とか。

そう考えると京アニは職人に対して趣味人という感じもする。

まあどちらも味があってどちらも良いと思います。すげえ凡庸な締めだ。


(追記)
実際はスタジオについての詳しい知識なんて持ち合わせていないので、京アニがあんまり多くアニメを作らないのが規模のせいだったりとかいう可能性もあるよね。うーん、もっと知識をつけなければ。